アレハンドロ・ホドロフスキー。
「エルトポ」「ホーリーマウンテン」で知られる、危ない監督。
私は、絶対好きな監督だろうと予測しつつ。
ずーっとアンテナにひっかかってたまま、結局、まだ一本も彼の映画を見てなかった。
逆に言えば、無理して見ないようにしていたとでも言うか。
こういう危険な監督の映画は、ファーストコンタクトが大切だから。
「初めて鑑賞する日を大事にしよう」と心に決めてた。
シチュエーションがしっかりそろうその日まで、と。
さて。
「リアエイティーのダンス」は、ホドロフスキーの23年ぶりの新作だとか。
初鑑賞が新作って、悪くないファーストコンタクトかもしれん。
と、映画館に駆け込んだ。
結果。
ホドロフスキー初体験が、新作「リアリティーのダンス」だったこと、しかも、映画館で体感できたことは、
自分にとってはとても贅沢なものであった。
意味とか言葉とか理由とかそんなの通り越して、「何か」がガツーンと伝わってきた。
何がなんだかよく分からない映画だが、最初から最後まで兎に角目が離せなかった。
久々に、映画に狂った。
強烈な色、意味の分からぬ描写、ほとばしるパッション、慈愛。
それに感じるはずのない、風、海、波、匂い、感触。
沢山の「何か」が伝わってきた。
とんでもなく「オリジナル」な映画であった。
いや、もう映画すら通り越してアート、オリジナルアートだ。
完全にオリジナルなものは、解釈が難しい。
そもそも解釈するのは、不可能に近い。
良いとか悪いとか、ためになるとか、歴史が変わるとか、そういうものではない。
オリジナルを図る物差しは無い。
完全にオリジナルなものを前にしたときは、そこには作品と観客が存在するだけだ。
何かが通じあったかどうか。
何かを感じたかどうか。
相性。
好き。
愛情。
感覚。
空気感。
理性とは全く違う尺度でその作品をとらえるしかない。
しかし。
相性の良いオリジナルな映画を見ると。
その映画を観る前と見た後で、いつもの景色が違って見える。
それは、とても心地よいものである。
自ら、商業主義の映画が嫌いというホドロフスキー。
しかし、決してアングラにならず。
とてつもなくハッピーにパワフルに大胆に、
自分の中にあるアートをできるだけ多くの人に見てもらいたいと、純粋に願ってるこの男。
彼の情熱的で真っ白な魂に、しっかり感動したよ。
「リアリティーのダンス」を評することは不可能だ。
だが、私にはとてつもなく面白い大興奮映画であった。
映画「リアリティーのダンス」
点数:0~100点
勘所:何かを感じますか?
教訓:初体験は大切に